ぱたーん4
ああ
香港を代表する映画監督、王家衛の二作目の「欲望の翼」を、井森のお陰で視聴できるネットフリックスで偶然見つけて鑑賞した。「欲望の翼」は王家衛の独特な作家性を確立した初期代表作であり、観た瞬間から溜め息がでるくらい引きつけられた。どのカメラワークも、いや、それ以前に、色合いからして、うう、いいなあ、いいと声をだしたくなるような作品であり、実際わちも結局のところ何がいいのかはわからないのだが、そのような声にならない呻く声をだしていた。
冒頭キザな青年レスリー・チャンが、売り子であるマギー・チャンを口説く所から話が始まる。君の名前はなんというのかと聞いておきながら自分で答えるあたり、事前の準備を怠らないタイプのようだ。「夢で会おう」などとわちなんかでは一生使えないキモいと言われてしまうような台詞を吐いてマギー・チャンを揺さぶっていく。その発言を気にしてマギー・チャンは眠らない。眠らなければ夢を見ないからである。一度目二度目の接触は売店の台を隔てて、あるいは売店の外で起こる。しかし三度目は様子が異なる。レスリー・チャンは平然と売店の内部に突入し、時計を見てくれ一分でいい、とマギー・チャンを誘い腕で包み込む。一分間の静止の後「一九六〇年四月一六日三時一分前君は僕といた。この一分を忘れない。この事実は否定できない。」と言い残してその場をさる。ここでマギー・チャンは恋に落ち、次のシーンで二人はベッドの上でゴロゴロしている。この短く簡素で強引なシーンはこの後の展開をそしてレスリー・チャンの生き様をアイデンティティを表している。唐突に現れては他人を揺さぶり颯爽と去っていくレスリー・チャンは、自己を「脚のない鳥=飛び続ける鳥」と規程する。結婚などという制度には縛られず、女性を取っ替え引っ替えし、また香港をでることを欲望するその姿は、まさにその自己規定を体現している。しかしそうであるからこそ、この一瞬を固定することに固執してしまう。「一分前君は僕といた。この一分を忘れない。」とは、飛ぶ鳥が終わりなき飛翔を恐れ休むことができる灯台を探し求めるかのようである。
レスリー・チャンに揺さぶられたマギー・チャンは、ドミノ倒しのように警官であるアンディ・ラウを魅了し、彼を船乗りにそして国外にでることを促す。レスリー・チャンが次に付き合い別れたカリーナ・ラウはジャッキー・チュンに好かれて、援助を受けてレスリー・チャンを追って国外にでる。ここでは一見すると良い連鎖が、部屋をでること=国をでることを欲望し他者を突然の飛翔に促す惑わしの連鎖が、閉じた空間から開けた空間へと登場人物を開放していくようである。しかし実はそうではない。レスリー・チャンは養母のレベッカ・パンが国外にでることを拒絶し部屋に縛ろうとするし、国外にでたはずのレスリー・チャンとアンディ・ラウは偶然遭遇してしまう。結局外にでても登場人物からして閉じてしまうのである。それを確かめるように、暴力事件を起こしたレスリー・チャンは銃でうたれ死ぬ。最後の時にアイデンティティである「脚のない鳥は飛び続け、疲れたら風の中で眠り、生涯で一度だけ地上に降りる。それが最後の時」という詩を思い出し、自分は飛び立つ前に死んでいたということに思い立つ。なんとも悲しい救いのない話だ。つまりこういうことだ。閉じた空間から開いた空間へ、その欲望はそれ事態を実現しえない。他者を変える自己が変わるといった本質的な変化はその欲望だけでは成功しないのだ。ではどうするべきか。その答えはその続編である『花様年華』や『2046』を待たずして、次作の『恋する惑星』において思わぬ方向から提示される。